2020年5月23日土曜日

-御礼-マツリウミスクプロジェクト終了のおしらせ

みなさま、こんにちは。

まずはじめに、先日の投稿を今日よりも前の日付でよんでくださった方へ、読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。

そして、せっかくお読みくださったのに、とりとめのない感情ものせて、ことばを綴った部分があったことをとても反省しています。

驚かせてしまった方、いらしたと思います。
ほんとうに、ごめんなさい。

どんな状況にあっても、ことばというものにいつも丁寧に、やさしく向き合っていることを、これからの課題として、心をあらたにしています。

もしお見守りいただけましたら、
これほど有り難いことはございません。


今日は、みなさまに今後のマツリウミスクの活動についておしらせを失礼します。

この度、いつもひとりひとりの方の手をお借りして支えて頂いたマツリウミスクを、本日5月23日(土)をもって終了することといたしました。

みなさまへは先日の投稿であたらしい構想についておしらせしたばかりで、それから間もなくの急なおしらせとなりますこと、お世話になったひとりひとりの方へ、本来なら直接ご挨拶に伺うところを、お先にこの場をお借りしてのご挨拶になりますこと、申し訳ございません。

理由は、いまのマツリウミスクの運営体制では、独立して収益化につなげることが現実的に難しいというのがあります。
そして、なにより、それをやるだけのノウハウが、私にはありませんでした。続けることの前に、どうしていいのかもわからなくて、再開の目処をたてることさえ難しいままに、本来の夢は時間と共に遠のいてしまう。
それならばと、この決断にいたりました。

また決断の背中を押してくれたきっかけのひとつに、緊急事態宣言以降の生活のなかで、本当に色々な出会いをいただいたというのがあります。

それは音楽だったり、オンラインの映像だったり、そこに携わる人たち、ひとりひとりの情熱であったり。
それはエンターテイメントと呼ばれる世界のものでした。

この出会いに自身、気付かせてもらったことがあります。

いままで大切に重ねてきた道の方向からいまをみつめる日々も、いとおしくて、かけがえのないものだけれど、
あたらしい日々は、いまはまだないものをかたちにしていく道の側からいまをみつめて歩いてみたいという、こどもみたいに素直な想いです。

見る方向を変えたとしても、そこにはいままでとおなじように、これまでの道も大切に想っているし、どこにあっても共にいたひととのぬくもりはいつも自分のそばにあるのだということを、わたしはこの生活をとおして、より深く気付かせてもらいました。


有り難いことに、マツリウミスクは2015年「根っこは何処へゆく」の上映会を皮切りに、2016年「下線部の答えを求めよ」2017「宇都亜沙子展」と年に一度のペースながらイベントをぶじに開催させていただくことができました。

ひとつのイベントを開催するのにひとりでできることなどひとつもなくて、まわりに人がいてくれること、助けてくれることが、ほんとうに有り難くて仕方がなかったです。
関わり合うなかで、ひとの歩みはもちろん、その情熱や思い、そのひとにしかないあたらしい視点との出会いは、本当に学びの連続でした。

企画、チラシのデザイン、印刷、広報、会場準備、設営、設備、当日の会場運営や物販、進行、本番。
すべてに世代や分野によらないたくさんの仲間、観に来てくださるひと、友人、家族。どんな形であっても、いつも支えていただきました。

ほんとうに、ありがとうございます。

最後になりますが、マツリウミスクを初めたきっかけは、心がほんとうによろこぶ好きなこと芸術や文化の価値を認めてほしい、誇りをもって続けていたい、それをしたいと思うひとができる環境をつくりたいという思いです。

そのためには、ひとつの分野の枠以外の色々なひとに知ってもらう必要があると考えました。
やっていることはちがっても、ちがいのなかに共有できる点や、思いは必ずあるだろうと考えたのと、ちがうからこそ考えもしない何かが起こることへの期待ももちろんありました。

そこにひとが集まれば、まだみたことのないものを見て、みんなで楽しめれば、きっとそこへ来てくれたひとたちは、いままで知らなかったもののことも、好きになってくれるかもしれない。

そうして好きがもっと広がれば、それらの価値が世間一般にも浸透していけば、この先も、次の世代も、好きなことを続けられるし、みんなでずっと一緒に笑い合える。
それがはじまりでした。

いまでも純粋にそう想っています。

休止期間中も再開をのぞんでくださっていた方がもしひとりでもいてくださったとしたら、本当にありがとうございます。

今回、このようなおしらせになってしまい、残念な想いをさせてしまってごめんなさい。

休止期間含めると実質の活動期間はちょうど3年でしたが、さまざまな葛藤も含めて、6年間という長い間を近くでも、遠くでも、見えるところからでも、見えないところからでも、
見守り、応援し、気がけ、関わってくださったすべてのひとりひとりのみなさまへ、心から、感謝しています。

ありったけの愛と
感謝のこころをこめて。

ありがとうございました。


辻川 綾子

2020年5月9日土曜日

あたらしい世界、あたらしい生活を前に、マツリウミスクのこれからについて考えていること

みなさま、こんにちは。
ご機嫌いかがでしょう。
辻川綾子です。

ご無沙汰しすぎるあまりわたくし3回まわってワンと吠えてしまうかもしれないほどにご無沙汰しています。
(おふざけしてあいすみません)

まず初めに、現在のこのCOVID-19という、人類史において未知なるウイルスの発生により、ひとりの大切ないのちが失われてしまったことをかなしみ、やすらかな眠りを願ってお祈りを捧げます。

ひとりの行動が、新規感染者数の減少として目に見え始めたいまこのときも、医療の最前線で命を支えてくださっている方、病気を治そうと闘っておられる方、たとえどんな形であってもこの社会に生き、今日を生き抜くすべてのひとりひとりの方へ敬意と労りの心をおくり、光を想います。


いまこのブログを読んでくださっている方のなかには、このアートプロジェクトについてご存知ない方もおられるかと思います。
興味を持ってくださって、ありがとうございます。

改めまして、私はマツリウミスクというアートプロジェクトの代表をしています、辻川綾子と申します。

福岡在住で、会社勤めをする現代美術のアーティストです。プロジェクトの活動内容や、主旨については、新しい日常のはじまりのただ中にいて、いままさに色々と考え深めているところです。

さて、それぞれにお感じの方もいるかと思いますが、5月に入り新型コロナの影響がいよいよ様々なカタチを伴い明らかになりはじめているのを感じています。

私は自宅にテレビがありませんが、ひとたびSNSのタイムラインを開けば事実をそのままに伝えるものから、様々な感情や意図を思わせる情報が、次から次に目の前へと押し寄せてくるような気がします。
これだけの激震に揺さぶられて、あらゆるものが混濁し渦巻き始めたような現実を前に、いま私は、自身が守れる範囲のことにできる限り集中をして、これから訪れるあたらしい点を自分にとってどんな世界になったらうれしくて楽しくて、ひとりひとりの人たちと笑い合えるかなあ、などと想像しながら、光の方向へ心と身体を向けていたいと思う次第です。

もちろん、めくるめく状況を前に心にはちゃんと恐怖や不安、葛藤のいられるお部屋も用意しています。人間ですから。
安心してくださいね。
毎日を、だれかのではなく、自分の舵取りだけはなんとかヘタクソでもがんばってやっていきたいです。

前置きが長くなりました。

マツリウミスクはこの経験を経た先のアートプロジェクトとして、どのような在り方でのぞみ、どのような基盤を敷いていきたいのか。
改めて考えてみました。

なぜこの思考中の段階でブログに書かせていただくのかというと、いまの自身の頭の中に浮かぶものと、胸の中の熱量みたいなもの、ふたつにはちゃんと整合性があるのかどうかを言葉に書き起こすことで確認したいという想いと、誰かの目にふれるかもしれないというある種の緊張状態に置くことで、芯となるものを再度確認させていただくためです。
お付きあいくださる方、本当に有難うございます。

本題です。
現在マツリウミスクは活動をおやすみしています。

最後の企画は、2017年5月7日のちょうど3年前でした。当時、福岡を代表する現代美術ギャラリーのひとつ IAFSHOP* の佐藤恵一さんの多大なるご協力とご尽力のもと『宇都亜紗子展』と、それに伴う画家本人と落語家、パーカッショニストが入り交じり共にパフォーマンスを行うイベントも演者や観に来てくださった方はもちろん、見守り支えてくださった方ひとりひとりのお蔭で実現することができました。

それぞれに演者はほかの仕事をしていたり、画家の宇都亜紗子さんにいたっては東京在住であることからリハーサルもままならないなかでのパフォーマンスでした。パフォーマンス後は宇都さんの作品空間に火を灯し、いつのまにかさっきまで演じていたひとたちが、観ていたひとと火を囲んで話をしていました。

これはまさに佐藤さんの人柄もあるのと、福岡には他にもWALD ART STUDIOやart space tetra、ギャラリーモリタなど、観る側と観せる側の境界がゆるやかな線を描いて心地のよい現代美術のギャラリーがあります。やさしさや厳しさの根底にいつも途絶えることのない愛の流れを感じていました。この場をお借りして感謝申し上げます。

この話を読んで、すこしでも興味をもってくださる方がいましたら、いまの事態
が落ち着いたころにぜひ脚を運んでみてください。

度々話が逸れてしまい申し訳ありません。

先にご紹介した三者相まみえるパフォーマンスに、私はなにかちいさなタネをみつけられたのかもしれないと、感じたのを覚えています。

福岡を代表する現代美術家であり、敬意を込めて、凄いひとであるにも関わらず、いつも隣でからだの水分はいいちこかもしれないくらいよく飲むときは飲んで、いつもまっすぐに心を開き、受け止め、熱く向き合ってくださる、敬愛してやまない江上計太氏からも、この場では控えさせていただきますが、感想のことばを頂いたときには胸に寄せる思いと、ちいさな覚悟めいたものがありました。

この日のようすは映像記録を残していたのですが、なんと大いに不備があり、記録媒体の紛失と、唯一残っていたiPhone本体の大破などでいまはお観せすることができなくて、とても残念です。
パフォーマンスをしてくださったみなさんへ対しても申し訳なく、記録に関する失敗はこれが初めてではないので、非常に反省しています。

この開催の記憶といまの現実を踏まえて、今後は、美術や音楽をはじめとする芸術や文化、日本の伝統、Scienceなどによる表現の体感はもちろん、学問としての側面からも、その場にあることで意図なく遭遇した好奇心の種を居合わせたひとたちが思い思いにすくってお土産のようにお家へ持ち帰ってもらえるようなしくみを組み込んでいけたら面白いことにつながるかもしれないと考えています。

また、今回の事態で日常のくらしに本当に必要なものが何なのか、それを見極める必要に迫られた方は多いのではないでしょうか。私もそのひとりです。

そのため、これまでとはまた切り口変えて、衣食住との関わり方にもまなざしを向けた取り組み方というか、形式というか、そういったものも何かできたらいいなあと考えています。

いままで、社会や雰囲気が決めた生活に「絶対に必要だとされているもの」と、「そうではないもの」を根本から見直して、そこにたしかに在るつながり、回路や枝葉、血管や神経のようなを、目に見えるカタチとする方法も、考えはじめているところです。

それではここで、マツリウミスクの主旨につながるキーワードをご紹介させていただきます。

-私たちの内面にあるわたしという存在は、肉片にやさしく纏った皮膚という一枚のごく薄い膜隔てられています。その膜はまるで他者や外の世界の一切を遮断しているようにも思われますが、連綿とつながれてきたいのちの営みとしてひとつであることは夢物語でもなんでもなく、紛れもない事実です。

その事実は目に見えないので、これまでの世の中、特にここ150年ほどの日本という国では色々な過去のかなしみやくるしみもあってなのか、あまり重要ではないようにされてきたように思います。

そして、そのあまり重要ではないものを感じることが大好きで、それを突き詰めることをがんばりたい人たちは、いまの社会が決めた役に立つことの枠組みに合わないというだけで、大好きなことを続けることはとても苦しいことであったり、人並みの生活ができなかったり、ついには続けることができなくて、あきらめてしまったりするということも、決して珍しいことではありません。

そのひとにとってのゆたかさやよろこび、楽しみが続けられないことは、とてもかなしいことだと私は想います。

それを美術にあてはめてみると、これは個人的な意見になってしまうかもしれないのですが、美術はいつのまにか何かとくべつな才能や能力、知識やたくさんのお金を持つ人たちのためにある、すごく特別でよくわからない、それをやっているひとのこともわからないから、すこし恐いものといった捉え方をする人も増えてしまったのではないかと思っています。

ここでさきにみなさんにお伝えできればと思うのは、これは、私が福岡に戻る前からなんとなく感じていた、ぼんやりとした美術への印象です。

アーティストになることが思いもよらなかった私は、美大に通ったことも、絵画教室に通ったこともありませんでした。
そのため美術というものが、なにかすこしべつの世界にあるような気がしていて、ギャラリーの前を通るときにはすこし緊張してしまうほどだったくらいなので、そのような感覚をいつもどこかで抱いていたのだと思います。

きっとそれは、遡れば中学美術での授業が大きなわかれ道であったようにも思われます。
教えてくださった先生のことを責めたり非難したりする気持ちはひとつもありませんので、ご理解くださいね。

あの日、あのとき、美術というものは絵を描いたり、何かを彫ったりするもののように感じて、そこには比べるというものがあって、いつのまにか美術というのは「才能」や「能力」というものがなければその世界にいてはいけないんだと、こどもながらに受け取ったような気がしています。

あのときの授業を通して観たり聴いたり、体験したことが、美術というものの世界を少なからごくちいさな限られた枠組みのなかに閉じ込めてしまったように感じています。

もちろん枠組みがあるから生まれたたくさんのすばらしいものがあって、けれど、囲われたたちいさな世界には、外の世界と関わり合うことでなかで気づけることがあるのではないかと思います。
それは違和感というものです。枠の中だけでね生活では、違和感にきづけないばかりか、違和感を当たり前のこととして何の疑問ももつことなく受け入れてしまうこともあるかもしれません。

何をお伝えしたいかというと、つまり、私は違和感を無視できない人間です。

この世の、点ほどにちいさな瞬間を、偶然にも共に在ることのできる世界中の大切な人たちと、このゆたかさを共有したいし、それを続けられる世の中であってほしい。

一粒の水が岩間の苔から流れをつくる。それはやがて川となり土を潤しそこへはゆたかな森がひろがる。ゆたかな森は腐葉土つくりその土は川を介して海と山をつなぐ。混じりあう境界、気水域では多くの生命が生まれる。その生命によってきよらかな水は海に住むいきものをもゆたかに潤す。わたしたち人間はそのお蔭で田んぼや畑、川や海からいのちを頂いている。かつてその排泄物が土や海の肥やしとなり循環のしくみが守られる時代はすぐ近くにあった。

そうしたことに想いをめぐらせることを、体感や心の感覚で教えてくれるのが美術ではないかと思います。

うつくしいとは何かをしるためのすべ。

それは誰もがひとしく知ることができて、使うことだってできる。それを使うことが、生活に灯す楽しみやゆたかさにつながっていることを、私たち人間は、本能として本当は知っているのだと思っています。


有機物も無機物も、綺麗なお花も悪臭を放つゴミ溜めも、いまここにあるすべてが営みのなかにあること。すべては必要だからあって、宇宙が生まれたとき、もしかしたら宇宙もなかったときからつながれてきた証しとしていま目の前の道端に転がっていること。

それぞれにことなる感性を面白がる美術の寛容な土壌や、その楽しみ、ゆたかさをもっとたくさんのひとと分かち合うことができれば、世の中はお互いのもつすばらしい個性を認めて、ひとの違いを面白がって、ひとりひとりが自分の輝きたいところで輝くことを許せる、自分の輝きも他者の輝きも一緒になって想い歓び合える世界になれば、この世界はよりよい未来へとつながっていくのかもしれない。
そう思いました。

そんな未来があるとしたら、考えるだけでどきどきワクワクしてしまいます。


個人の意見を浮かぶままにただ書き連ねてしまい、失礼しました。

最後になりますが、これらのことをマツリウミスクの主旨としてもう少し短めにまとめてみました。もうしばらくお付きあい頂けましたらこれ以上の感謝はありません。


あらゆるひとものことが出合い関わり合い、同じ空間、同じ瞬間にただ存在するだけで、互いの境界はほどけ、感覚は浸透し、そこに発生する「いきる歓び」をそれぞれが、それぞれの受け取り方で共に体験することができるのかもしれません。
私はそんな世界が実現されたらと、想像するだけで、とてもわくわくしてしまいます。


本来すべてのいのちが持つ感覚を開き、共に体感することでうまれる共通感覚は、ひとと歓びを分かち合うことのゆたかさを私たちにしらせ、体感として刻まれたその肉体感は、未来のあたらしい創造と想像の感性を育み、深化へのあたらしい因子の創出へとつながる可能性をはらんでいるのではないでしょうか。

新たにうまれた因子の集合はやがてうねりとなって、よりよい世界を願う人間本来の性質に素直な流動を日常に起こし、常にしなやかに変容を遂げながら続いて、その流れはいますでに別の次元で時空を超えて誕生しているいのちへとつながるかもしれません。
そのときはじめて、現象としての循環が成り立つのかもしれません。

そのうねりの因子のひとつとして、このマツリウミスクというアートプロジェクトを考えています。

いま、観たり聴いたりするだけでつらいニュースに胸を痛めて、かなしみや苦しみ、怒りを感じることもある日々の一方で、いつものように雲が流れて、雨粒の落ちる音が鳴ったりやんだりして、木々に葉が揺れては青々と輝いて、風がふけばひらひらこちらに向かって笑いかけてくれる、鳥たちも毎日のようにどこかど歌ったりおしゃべりをして、ちいさな虫たちがいつもと変わらず蜜やエサを探して飛んでいる。

いまがどんな状況だとしても、必ず助けがあることを信じて、ひとを頼ってほしいです。
不安と同時に、ひとを労り、助け合うことの尊さを痛いほど感じてるいまを越えた先に、私たちはよいよい世界をあたらしくつくり直していく。
その素晴らしい機会が与えられたような気がしています。


いまも、これまでも、これから先の未来もひとりじゃありません。
つらいとき、もうだめだと思ったとき、顔をあげて想像してみてください。あなたへ想いをおくる誰かの存在に気づくことができるはずです。
そうすれば、まだここにいてもいいのかもしれないと、それが明日へののぞみにつながっていくのかもしれません。

あたらしい世界を、共に歩いていきましょう。

マツリウミスク
辻川綾子